失恋内服薬

大人のオンナが心の傷を癒していくには?

教会にも行ってみる

 飢え渇きがある時には、なるべく教会に行く。洗礼を施して下さった教会からは、引っ越しなどで遠のいてしまっていることもあり、ここ1~2年は鎌倉雪ノ下教会に行っている。主任牧師を務める方の説教が、切れ味鋭い論旨の展開で心地よい。普段何気なく過ごしていると、皮下脂肪のように怠慢や傲慢や甘えといったようなものが、皮下脂肪のように着々と溜まっていく。そこに、サクリサクリと鮮やかにメスを入れられるようで痛気持ちいいのだ。

 今日の説教はその方ではない牧師さんで、論理ではなく感覚で聞いた方がよく響いてくるなぁと思った。放つ言葉の一つ一つがきれいな響きを持っておられるからだ。

 でも、旧約聖書の哀歌の一節と、新約聖書ペトロの手紙Ⅰの一節を引用しておきながら、説教では哀歌の一節だけにしか触れなかったのは、ペトロの話を飛ばしてしまったのではないかしら?ちょっと早めに終わったのは、台風が近いせいか空席が多く、目の前で寝ている人もいて、興が乗らなかったのかな…?

 とっても良かったのに。

 '塵に口をつけ’、自分は塵あくたと等しいと、打ちのめされ倒れても、もう片方の頬を打ち据える者に向ける。くびきの重さに耐えかねて、絶望に打ちひしがれても、それは最後の時ではない。神の慈しみと憐れみを信じ、待ち望むことができる。その時に神の愛に出会う。

 …というところがとっても良かった。凍えるような寒さの先に、春の到来があり、植物は冬に根を張るものだと、思うから!「 夜明けの前が最も寒い」とも思うし。

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 大抵は、人の力や自分の努力で何とかなるけど、そうじゃない時も必ずあるから、その時にどうするか?というのは心の危機管理だと思う。神様の力に拠り頼むという考え方は、力強く前向きでポジティブなものだ。

 説教の内容をつらつらと思い出しながら、祖母の遺品だった文語体の聖書を開き、哀歌の’塵に口をつけ’のところの続きを書いてみた。文語体はなんて美しくて、言葉に力があるのだろう。

 

 

 

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